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<大浴場で考えたこと>
 夜、ホテルで食事を済ませて大浴場へ。温泉もあるし、露天風呂もあるし、サウナもついてる。体内浄化しなくちゃ!という意気込み。
  宿泊客は、ほとんどが50歳以上のひとたち。もっとも私くらいの人は仕事で忙しく働いている年代なのだから見当たらなくて当然!サウナの中は誰もいない。たまに入ってくる人もいるけどあまりの熱さにみんなすぐに出て行ってしまう。そのあと、露天風呂に行く。ここは人がたくさんいていろんな会話をしている。私もなんとなく参加。
  ツアーで旅行している人が多く、みなさん種子島や奄美の方からまわってきたらしい。屋久島はゴルフもできないし、遊ぶところもなんにもないから明日は適当に買い物して帰るんだそう。じっくり廻りたいのに時間が足りないと思っている私とは全然違うんだなあ。。。
 
  世の中はものの感じ方や考え方の違う人であふれている。海や山で目的もなくただ何時間もすごしてしまう私のような人はあまりいない。実はごく少数派らしい。。。
(サウナやお風呂で長時間すごす人だってそう多くはない。)
 
  時間の使い方は、物事の価値観や時間そのものの感じ方で決まってくる。
 
  価値観は人によってももちろん違うけれど、社会の通念としての価値観だって多数派と少数派が逆転することはよくあるし、いいとされてきたことが突然よくないという風に変わることも多々ある。同じ人の中でも変化する。環境に左右されたり、時によっても違ってくる。
  時間も人によって長短の感じ方が違うし、スピード感も違う。時間はすべての人に同じように流れているけれど、同じようには感じられない。究極的には時間のとらえ方を基準にすると年齢だって決められないということになる。
 
  そう考えていくと結局決まっているものなんて、定まっている絶対的なものなんて何もない。今決められている規則や法律だって、絶対に動かせないと信じている年齢や性別だって別の基準を作ったらまるごと変わってしまう。性別や年齢を自己申告制にしたらどうなるのだろう?お金だって、あんな紙切れをみんな大切にしている。信じているということだけで通用しているの?
 
  あらゆるものを区別するための境界線。国境も含めて。それがなくなったら、差別や戦争もなくなるのだろうか?どうして人間は区別したがるのだろうか?境界線が崩壊したら、人は基準を見失って生きていけないのだろうか?なんのために境界線は必要なんだろうか?信じることが境界線や基準を作るのか守るのか壊すのか?  
  わからないことばかり。わたしたちはごくあたりまえに今までに作られてきた決まりごとの中で多くのことを判断している。何も考えず。何の疑いもなく。
  このままの枠組でいいのか、変えるべきか、それ自体なくしてしまうべきなのか、今の私には答は見つからない。
  だけど、別の区切り方もあるということ、枠組を変えたら世界も、自分の中も簡単にごっそり変わってしまうということは認識しておくべきなんじゃないかなと思う。
 小さい頃からずっと不思議に思っていた。日頃はあんなに恥ずかしがっているのに、お風呂やさんのあの薄っぺらなのれんをひとつくぐっただけでみんな平気で裸になり、そのまま堂々といっしょににこにこ気持ちよくお風呂に入れること。
  温泉の大浴場のたわいもない会話からこんなことまで話が飛躍して、お部屋に戻ってもずっと考えを巡らせていた。水着禁止の意味もつながってきたりして。。。
 さあ!明日は早起きしていよいよ森の中へ!
(写真は、ホテルの私のお部屋のベランダから見えた景色。切り立った崖はモッチョム岳。)
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