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2008年03月30日 『身体感覚実験』

先日、ピナ・バウシュ舞踊団の公演を初めて観ました。
以前共演させていただいたジャン・サスポータスさんがこの舞踊団のダンサーであることもあって、いつか観てみたいと思っていました。

パンフレットも結局買えず、受け止めたものが果たして制作の意図と同じであるかどうかはわかりませんが(むしろそんなことはどうでもよくて、すばらしいものというのはたぶんたくさんの解釈を生み、ひとつのことばでは表現することのできないものなのでしょう。)、私はとても人間らしく自然で肯定的なものを感じました。
コンテンポラリーダンスというと、ストイックという印象があって(これも先入観かもしれませんね。)、どうしてもこれは一体何を表現しているんだろう?とか何を意味するものなのだろう?とか、つい考えてしまいがちなのですが、先日のピナ・バウシュ舞踊団の公演は直接本能に働きかけてくるような感じがありました。

「フルムーン」というタイトルで、舞台装置は水と大きな岩。
満月の夜の海辺を想像しました。

満月には狼男の話の如くいろんな説がありますね。
そんな話を信じてるんです。なんて言うと、なんだかあやしい要注意人物みたいに思われがちですけれど、月の満ち欠けには周期があって、潮の満ち引きにも周期があり、さらに女性の身体にも周期があり、それは普通に考えてもなんて神秘的なのだろうと思います。

不思議なことはいっぱいありますね。
どうして感動する音楽があり、男女が恋に落ち、ほほえみに心が安らぐのか・・・どうして海になつかしさを感じて、山に抱かれると帰ってきた気がするのか・・・
今夜のように冷たい雨の日にはさみしい気持ちになり、晴れた青空の朝にはさわやかな笑顔がこぼれ・・・

きっとわたしたちのこころは、近くに起こっている直接的なできごとだけではなく、地球や太陽や月や星、空・・・・・遠くて無関係だと思い込んでいるものの影響をどこかで受けているにちがいないと思うんです。
そして、それはきっと途方もない大きなちからでわたしたちにはどうすることもできないものなのかもしれません。

ピナ・バウシュ舞踊団の公演は海辺に集うさまざまな男女のすがた?
どうすることもできないところにあるかなしみとよろこび。人間の本能のちから。生命力。そして、限界。
だけど、それらはすべて美しい。
生きているということ自体が、美しく、かなしく、滑稽で、矛盾に満ちていて・・・・
人間だって自然の一部なのだから自然とリンクしているはずで、そのサイクルがぶつかったり、あるいは乱れたとき、何かハプニングが起こるのかもしれませんね。

重力だって実はからだが知っている。のではないだろうか?などと考えて、重力を感じている自分の感覚を探し、風の声に何かの知らせを尋ねてみます。
からだとこころがしらない間に感じていることを尋ねてみるんです。

そうすればわたしたちはもっとやさしく、もっと自由になれるのかもしれないなどと思いながら・・・

2008年03月26日 『日常のすきま』

ほんのささやかなできごとが心を和ませてくれることってありますね。

久しぶりに時間ができたので鎌倉を散策して、風がすっかり春のにおいに変わっていることに気がついて、あじさいの新芽がたくさん出てきていたり、椿はもう終わってしまったのね・・・とか、自然は季節の営みを黙々と繰り返しています。

卒業式や入学式・・・・出会いと別れが交錯する季節。

桐蔭高校箏曲部のおさらい会は、毎年この季節に学校の一角にある同窓会館で行われます。OGたちも都合が合えばかけつけてくれるし、受験を終えた卒業生は最前列の席で後輩の演奏を見守ってくれて、もうそこには一種のなつかしさのような気持ちさえ漂っています。
1年前はあなたたちもドキドキしながらこの場で演奏をし、音楽で友情を深め、成長していったというのに・・・。
何人の卒業生を見送ってきたかしら。と時々同窓会館の脇にある桜の木を見ながら思うことがあります。

この桜が満開で、会場の入口にひと枝飾ったこともあったし、季節が終われば毛虫がいっぱいで木の下を走って駆け抜けなければならないし、秋には枝の向こう側にきれいな夕焼けが透けて見えます。
そうしてずっとずっとこの木も高校生たちのお箏の音を聴きつづけ、見守ってくれているのですよね。

高校の入口には大きな桐の木があります。(そういえばお箏は桐の木でできているんですよね・・・特に関係はないけれど(笑))葉っぱが揺れて風の声が聞こえるんです。
私は、レッスンに通ったり個人練習しなければならなかったのでクラブ活動やともだちとの放課後の交流はほとんどなかったから、箏曲部の生徒たちの様子を見ていいなあとちょっぴりうらやましくなります。
でも、生徒たちのさわやかな笑顔と純粋な空気の中で時間をすごせている今の自分の笑顔がもしかしたらあの頃の笑顔になっているかもしれないとも思います。
まっすぐにこどもたちの目を見つめて、そして、きっとこの時間があなたたちの宝物になりますようにと願う気持ち。

整体へ自転車で急ぐ道、ちいさな男の子があとを走ってついてきました。
「どうしたの?ひとりで走ってるの?」
「うん。マラソンの練習してるの。」
「学校のマラソン?ぼくはいくつ?」
「もうすぐ学校でマラソンがあるから練習・・・はぁはぁ(息)・・一年生だよ。もうすぐ二年生だけど。」
ずっとついて来ちゃったので、なぜか私が自転車で伴走しているようなかたちになってしまっている・・
「じゃあ、あそこの角までいっしょに走ろうか!」
「うん!」
「がんばってがんばって!!!」
(ぼうや、全力疾走。がんばりました!)
「じゃあ、私はこっちに行くね。ぼく、ひとりでだいじょうぶ?」
「だいじょうぶ!(にっこり)」
「マラソン大会はきっと最後まで走れるよ!その調子なら絶対だいじょうぶ!がんばってね!バイバイ。」
「うん!」
「私はここで見送ってるから走っていって。」
「うん!」

ずっと向こうの角で見えなくなる直前に男の子は手を大きく振って「バイバーイ!」と笑顔で叫んでくれました。

夕陽が落ちるころのささやかな会話。
あの男の子は最後まで走れたかしら・・・・

日常にあるちいさな出会いと別れのかけら。
それが余韻のようにずっと心の奥にしみわたっていく春の日。


2008年03月22日 『美しい和歌山』

お彼岸をすぎて、もう3月もあと1週間なのですね。
うれしいこと・思いがけないこと・涙したこと・トラブル・心あたたまること・・・目まぐるしい日々をすごしていました。

先日お知らせしましたテレビ和歌山の番組「美しい和歌山」が放映されました。
番組終了直後から反響がすごくて、テレビ局にもたくさんの電話があり、私にもお手紙・メール・そして直接・感動のおことばをたくさんいただきました。ありがとうございました。
私自身即興演奏で参加させていただいたことに感謝の気持ちでいっぱいで、今も贈っていただいたDVDを見ながらひとりで号泣していたところです。

聖地・和歌山の自然の神々しさと、そこに暮らす人たち・あるいは何かを求めて険しい道を歩む人たち、それらの織りなす景観のすべてが胸に迫ってきて、涙が出て止まりませんでした。

熊野・枯木灘海岸の荒々しい海を見たとき、その激しさは私の内部にもあって、まるで生き物のように荒れ狂って、私のからだからはみ出てしまいそうなほどに心をかきたてられました。
那智の滝で、わたしたちが立ち入ることのできない聖域の映像ー滝の生まれ・曲がりくねった木・輝く石・・・ーそれらは手の届かない・わたしたち人間のちいさな存在を思い知らされる威厳と永遠に満ちていました。

筝の音は木の声。
音を紡ぎながら、いつしか音の連なりは私の手を超えて、熊野の木々や水、海や山々と呼応しているように思えました。
音がふるさとへ帰っていくように・・・・・
呼び交わしているように・・・・

そして、わたしもまた、わたしが生まれるずっと前のわたしに帰っていくように思えました。

邦楽もクラシックもポップスも民族音楽も現代音楽も・・・・どんな音楽も私は好き。
その源を辿るとき、音はひとつの粒子になって原子になって、筝の音は森に帰って行く。
私はその行方をじっと見つめている。
音を放った瞬間にさみしさとかなしさが心に宿るのはそのせいかな。。。。

音が生まれるとき、いつも音は私のものではないんだと思うのです。

「美しい和歌山」再放送は、4月12日(土)午後3時~
是非ご覧下さい。


2008年03月11日 『ぼんやりと・・・』

あっという間に3月がやってきて、そしてもう10日も経ってしまいました。その間に、コンサートがふたつ。

ひとつは、スパイラルでの声明の公演。
もうひとつは、「声」をテーマにした東京大学での演奏会。

両方の演奏会で声を出しました。
歌を歌うことと声を出すこと(語ること)、以前はまったく別の行為として区別していました。
最近は、その境界が曖昧になって、さらにその境界に漂うものの不思議な何かに魅力を感じています。

お坊さまたちの声の中に自分の声を重ねるとき、声の動きの線だけを見つめてなぞるようにたどってみたり、ちがったかたちの線を描いてみます。
そうすると、線と線の距離が響きの模様を微妙に変化させ、さらに、ひとりひとりの声には色があって、その重なりがさまざまな色を生み出し、まるで磁石のように、声と声は時には引かれあったり、反発したりして、そこに不思議なちからの渦が生まれます。

空間に波紋の模様がいくつも現れては消えてゆくのを見ながら、何も無いと思っている空間の「存在」を発見します。その瞬間に空間は生き物になるから。

たとえば、家の中で動くはずのないものが動いたときビクッとしてこわいと思うのは、そこに「生きている」ということを感じるからなのかもしれません。

だとしたら、「生きている」ということはどうして恐怖になるのだろう?

ことばがひとつずつ、ぽとりぽとりと自分からこぼれ落ちてゆくとき、かなしくなるのはなぜだろう?

あまりに美しいものに、かなしみと恐怖を同時に感じるのはどうして?

花々の甘い香りは、何かを語りかけるように、誘うように、、まるで生きていることを叫ぶささやかな声のようで、鳥たちの少し切り立った声を聞きながら青空のずっと向こうを眺めて、こんなことをぼんやり考えているのも、やはり春だからかもしれません。

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