さてさて、プログラムは後半に。
4曲目は、自作曲「つゆはひかりにとけて」。
クリップやステンレスのボウルをくっつけた十七絃と、琉球音階にチューニングされたミニ箏、テーブルの上にはセラミックのお茶碗が5個+ステンレスボウル(小)1個。
準備していたら、お店の人に、今日はお料理もするんですか?と言われてしまいました!(まさかっ!(苦笑))
この3つの楽器?の間を行き来して演奏しました。作曲といっても、音を選んで、大まかな進行を決めて、いくつかのパターンを頭に入れただけ。。。あとはその時、その場で!
最近は、即興で弾くことも随分増えましたが、即興演奏というのは自由でなんでもできるようでいて、引出しが少ないとすぐにパターン化してしまうんですね。
で、お茶碗の部分は原曲「夕顔」の器楽部分(手事といわれる部分)の音とリズムのパターンを置き換えて演奏してみました。そうすると、またもや、夕顔という曲がいかに複雑に工夫された彩りのあるものかがわかるのです。
自分の枠や世界からどうすればはみ出し、飛び出して行けるか?
自由になるための不自由とか?
軸を作ることとか?
うーむ。考えることはいっぱい!吸収すべきこともいっぱい!
最後の曲は、「Aesthetics」(図形短歌)より7首と岡井隆による翻訳短歌5首(松井茂/音楽:西陽子)。
演奏の前に松井さんに作品の解説を含め少しお話をしていただきました。
よく理解できた方もそうでなかった方もいらしたと思います。私も、未だにどこまで理解しているのかわかりませんけれど。。。(汗)
「理解」というのは、助けにもなるし、ときには邪魔にもなるものかもしれません。
だからどっちでもいいのだと最近は思います。
それをきっかけに知りたいと思ったり、そこを出発点にいろんなことを考え、再び同じものに出会って、以前見たり聞いたりしたときとは違うものが見えたとき、それって醍醐味ですけど、見えなくなる「理解」というのもありますよね。理解は固定観念といつでも隣り合わせですから。
わかりやすいことは、確かに楽で、自分の中ですぐに解決できる速さがあります。
わかりにくいことは、面倒で、時間はかかるけれど、それを探っていくと、それだけじゃないたくさんのものごとに出会えて、気づくことができます。
松井さんの詩や短歌は、たぶん、理解できないことが大前提で、これをあなたはどう理解していきますか?という問いなんじゃないでしょうか。
きっかけであり、ヒントでもある?
ものの見方も聞き方も決まったものなんてないのですよね。
この前、お昼に窓を開け放って練習していたら、普段は騒音にしか聞こえなかった道路を走る車の音が、突然、「これは都会の呼吸の音だ!」と思えたのです。
私は今、都会の胎内でこうして音を鳴らしているんだなあって。
コンサートの最中もずっと外の音は聞こえていました。近づいてはまた遠ざかっていく波のような車の音、救急車や選挙カー、道路を歩くひとの話し声、、、、
ここは、海?なんて思ったりして。。
最近、箏は音自体のリアリティよりも「場」を作るちからが強いという風に感じていて、今回は「場」ということを特に意識してプログラムを組みました。「弾く」よりも「聞く」ことに意識を持っていくと、演奏前、そこは、さまざまなモノの配置、来てくださったお客さまひとりひとりが持っている空気のようなもの、それらが混沌とした場になっていることに気づきます。
箏の音と声は、そのバラバラな粒子(要素)を、まるで数式や化学式が解けたように、ひとつに集約し、そこに目に見えないひとつの土俵のようにまるい空ろな「場」を誕生させるように思うのです。
岡井隆さんの翻訳短歌をうたうとき、私はその「場」から彼方へ向かっています。
『箏の演奏家としての私』を探しつつ、松井さんとの共同作業はこれからも続く予定です。また、何か決まりましたらここでお知らせしますね。
満員御礼!
お暑い中、いらしてくださったみなさま、ほんとにありがとうございました。
そして、ゲストの松井茂さん、支えてくださったスタッフの方々にも心から御礼申し上げます。