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2007年05月31日 『広島から青森へ』

広島県・呉市で演奏会があり、芸大のひとつ後輩の菊森美穂さんと「百花譜」を演奏しました。
私は力が入りすぎてやや空回りしたところもありました(汗)が、好評のうちに終えることができました。呉市は菊森さんの地元で私は助演としてお招きしていただきました。彼女の音楽に対する情熱やひたむきさにはほんとに頭が下がります!

演奏会当日の午前中に大和ミュージアムを見学。戦艦大和は呉市で生まれたということで、呉市の歴史や「大和」に関する資料がたくさん展示されていました。休日ということもあって開館前から入口には行列ができていました。
呉市に着くまでの電車の中から見えるちいさな里山の斜面に原爆慰霊碑がひっそりあったり、広島に来ると戦争ということが人々の中にどんな傷跡を残し、そこからどんな思いで立ち上がってきたかということを考えざるをえません。沖縄もそうですが、「戦争」は歴史上の事件で過去のものというのではなく、ここでは今も「現実」として生活の深い底に横たわっています。

ミュージアムには、戦地に赴いたひとたちが家族に宛てた遺書なども展示されています。
小学校の高学年のある夏休みに、父から、特攻隊のひとたちが家族に宛てた手紙を集めた1冊の本を手渡され、読んだ記憶が甦りました。そのときは、ただ涙がこぼれるというのではなく、胸が苦しくなって嗚咽がこみあげて、読んだあと本棚にしまってつらくて触ることもできませんでした。

純粋で思いやりに満ち、日本を守るという使命のために自分を犠牲にするという精神は美しく尊いものだと思います。だけど、ただその中に浸って酔って、懐古主義になどどうあっても陥ってはならないのです。
この遺書を書いたひとたちが、どうしてかなしい犠牲にならなければならなかったのか、何を願っていたのか、何のために命を落としたのかということを考えなければなりません。現代の平和や幸せは、そういう犠牲の上に成り立っているもので、感謝し、同じ失敗やかなしみを繰り返さないことがわたしたちが受け継ぐべきことであり、できることなのだと強く思います。

広島から帰ってすぐ青森へ1泊の旅行に出かけました。
4年ほど前になんとなく行きたいと思ってはいたのですが、その後すっかり忘れていて、半年ほど前青森の夢を見たので行ってみよう!と決意しました。夢の内容は覚えていないのですが、そこが青森だったということだけは目が覚めたあともしっかり記憶していて、気になっていたのですね。

新幹線と在来線特急を乗り継いで、宿泊先は青森市。
一日めは、三内丸山遺跡へ。今から4~5000年くらい前縄文時代の前期中期の遺跡。
広い敷地には、住居跡やお墓、掘立柱建物跡などが点在しています。土の断面には、石器や土器のかけらがたくさん見られます。今は季節はずれなのか、現地のガイドさんの説明を聞くのも私ひとりで、贅沢なことにガイドさんとあれこれ話をしながら見学することができました。

縄文時代の生活が生々しく感じられます。大きな柱の跡やヒスイ・土偶・豊かな土器の数々。。。
今のように機械などなにもない時代に、こんなに精巧なものを作り、またこんなに大きなものを運び、建てた人々の生活や感覚は一体どんなものだったのだろう?と想像は膨らみます。
生きていくために必要なものはすべて自然の中から得なければなりません。自分たちの身体の知覚や感覚がすべての基準であり、実験を重ねていく上では失敗も限りなくあったにちがいありません。お墓は生活の場のすぐそばにあって、生と死はいつでも隣り合わせ。

今だって生活の基本はたぶんそんなに変わっていないはず。縄文時代はそれがものすごく直接的につながっていたし、衣食住すべてのことに誰もが関わっていなければならなかったのでしょう。今は分業化が進み、介在するものが多すぎて、結局「生活」がどういうものなのかということがわからなくなってしまうように思います。

縄文時代のひとたちも、おしゃれをしたようです。ピアスや髪留め。寿命はおよそ30歳。
盛り土の上ではさまざまな祭祀が行われていたようです。
そこでひとびとはどんな歌を歌い、踊り、何を祈っていたのでしょうか。

「生活」そのものは、本来とてもシンプルなものであるはずで、それを複雑化しているのもまたわたしたち自身かもしれません。

2007年05月24日 『初恋庵にて』

昨夜和歌山より鎌倉に帰宅。
和歌山ではいつものレッスンとからだのメンテナンス(整体とか。。)、図書館通いなど。今回は父のお誕生日もあり、家族でバースデイパーティーと称してホテルでお食事。(しかし、どういうわけか父がごちそうしてくれることに(^_^;))和歌山県立近代美術館の学芸員さんとも久しぶりにお会いしてゆるゆるおしゃべり。美術のお話はとてもおもしろくて、わくわくしました。

そして、エリック・ハイドシェックさんからメッセージ入りのCDを贈っていただき、拝聴。ことばではその感動をうまく伝えられませんが、心の底にまるで楔を打ち込まれるかのように強く心を叩いたかと思うと、水面を撫でるようにわたっていく風さながらにやさしくさりげなく、その音は葉からこぼれ落ちる露の珠のようにみずみずしく透明で。。。私の宝物です。
「演奏」ということについてまたいろいろ考えさせられましたし、「演奏したい!」と心の底から叫んでいる自分の声が聞こえてきたような気がしました。

鎌倉に戻ってくるとここにはここの生活が待っています。
「初恋庵」というのは私の友人Aちゃんがつけてくれた我が家の名前。「西さんところって庵っていうのがぴったりなおうちですよねー。」というわけで。。。
Aちゃんは、今年年明け早々に行われたかくし芸大会?じゃなくて(笑)中ザワヒデキさんのCD発売記念ライブで私のド下手な歌のバックのバンドのべーシスト&バンマス(リーダー)を引き受けてくれた女の子です。衣裳から選曲に至るまで面倒を見てくれた中ザワさんも認めるセンスの持ち主。
そのバンド名も彼女が命名してくれたのですが、それが「Yoko's First Love」。バンドでロックでヴォーカル、しかも英語で歌うなんて私にとっては初体験ばかり!ということでつけてくれました。
そんな流れもあって、うちは「初恋庵」。

「庵(いおり)」ってなんか世を儚んで籠ってる世捨人の住まいってにおいしますよね。って、まあ、「庵」の意味はそっくりそういうことらしく更には質素でつつましい家らしい。

世の中に日々疎くなってきて(もともと疎い(^_^;))、家の中で筝を弾いたり、読書をしたり、書道をしたり、たまには散歩を楽しむ生活のあるおうちということになるとやはりそうなるのかもしれません(汗)
川はちょろちょろ流れて、ウグイスやカエルの声に囲まれ、四季折々の花が咲き、夕方6時をすぎるとこの町はもうすっかり夜ですもんね。
鎌倉に通ってくれている生徒さんたちは、東京から来てくれる人はひとりだけ。神奈川県の人はいなくて、みんな千葉や埼玉から通ってくれています。大抵お昼前にレッスンを取って、それからハイキングや軽い散歩、ランチを楽しんで帰られるようで、靴だってウォーキングしやすいものを着用。
みなさん私より鎌倉に詳しいんじゃないかしら(笑)

「初恋」というのはすてきですよね。
・・・First Love・・・

「初めて」というのは、その先に何があるかわからない。不安もあるけどドキドキして、こどものようになって、何かを発見したときのうれしさといったら!

「Love」は愛?、恋?
愛と恋はちょっとちがいますよね?まあ、いろいろ思うところはあるけれど、恋は愛より寿命が短い気がします(笑)でも、どちらも捨てがたい(笑)どちらもすてきです!

どんなひとにも、どんなときにも、どんなものにも、どんなことにも、いつもいつも「First Love(初恋)」な気持ちで出会いたいですよね。たとえ、くりかえされることであっても。。。
無垢で純粋で、先入観もなく、偏見もなく、なにもない「こころ」。
朝起きてすぐに空を見たときの私の心はきっとそういう「こころ」です。いつもそうしていたいから、「初恋庵」はお気に入りの名前です。ありがとう!Aちゃん!

そうして、今「枕草子」をまた少しずつ古語辞典を引きながら読んでいます。
これがまた楽しい!日本人なのに、意味のわからないことが多すぎるなあと多少情けない気もしつつ、読みながら「そうそう!そうなんだよねー!」とか「それはちょっと言いすぎなんじゃない?」とか「そこまで言わなくてもー」とか「ほんと!いいよねー。」とか、ともかく、清少納言さんは今や私のお友達。会話をしているような気がしてます(笑)
そして、私の「こころときめきするもの」「すさまじきもの」「こころゆくもの」「にくきもの」。。。。などをぼーっと考えてみたりするのです。清少納言さんが、「そちらの時代じゃどうなのよー。」とお尋ねになるので(笑)
しかし、すぐにあれこれ言えないのはちょっと悔しいなあ。。
花や木、鳥、橋、池、滝。。。そして日々のできごとに細やかにあれこれ思いをめぐらせることをしていないんだろうなあと思わされます。

筆で一本の線を引く、たったそれだけのことに喜びがたくさんたくさん詰まっています。
今日も「初恋」な一日!

2007年05月12日 『感激の一日』

今日は、ブリヂストン美術館で正倉院の復元楽器である箜篌(くご)とルーブル美術館の復元楽器であるエジプトのアンギュラーハープの演奏をしました。
チケットは完売。
前半は木戸敏郎先生によるレクチャー、後半は私の演奏と質疑応答というプログラム。

前半では私もお客様と同じように木戸先生のレクチャーを舞台裏から受講し、15分の休憩の後演奏することに。
まずは、エジプトのアンギュラーハープから、曲は三輪眞弘さんの「蝉の法」。
今日はいつになく倍音がよく聞き取れて、自分の耳元で鳴っている音以外の音がたくさん耳に入ってくるなあ。なんて思いながら自然に演奏終了。
と、その途端に、大拍手と「ブラボー!」という声が何度も聞こえてきたのです!!!
「えっ?外国でもないのに?えっ?えっ?」とうれしいやらびっくりするやら。。
その後の箜篌の演奏は楽器を持つ姿勢が少し不安定で落ち着かなかったのですが、やはり、今日は音がいつもよりよく響いているような気がして気持ちよく演奏。
終了後はまた、「ブラボー」の声が!
うれしくてちょっとどうしていいかわからなくなってしまいました。。。

その後、楽屋にさきほど「ブラボー」と何度も叫んで大きな拍手を送ってくださった方が訪ねてくださいました。
興奮して何度も私の手にキスをしてくださって、「すばらしい!!あなたの音楽を聴いていると、リズムや音色がさまざまな色に微妙に変化して、まるで列車の窓を全開にして風が気持ちよく吹き抜けて、自然の中を走っているようで、すばらしかった!聴衆がプログラムやチラシでたてる音はいつもならすごく不愉快なノイズに聞こえるけれど、今日はそれがとても心地よくてまるで風や葉のざわめきのように聞こえたよ。私も演奏ではペダルの踏み方を半分にしたり、あるいは内部奏法をしてみたり、さまざまな方法を試みているけれど、今日はほんとに参考になりました。ありがとう。あなたにお会いしたことはけして忘れません。僕はベートーベンやモーツァルトも弾くけれど、ドビッシーの曲も演奏しています。「版画」という作品の中に出てくる音は、実にさまざまな音があって西洋音楽にある音だけではないんじゃないだろうかとずっと納得がいかなかったのだけれど、日本に来て能楽や歌舞伎やさまざまな音楽を聴くうちにドビッシーはこういう音を思って書いたんじゃないだろうかということに気がついたんだよ。そのCDを是非あなたに送ります。聴いてください。(すべてフランス語と英語でおっしゃていて、日本人の方がそばで通訳してくださいました。)」

もう私は夢見心地!
たった一度の演奏で、ここまで繊細に、まるで私が演奏しているのと同じ状態であるかのように聴いてくださる方に出会うことがあるなんて!
お話を聞きながら、鳥肌が立ちました(感激!涙!)

その後、その方がエリック・ハイドシェック氏というフランスのピアニストの巨匠でいらっしゃることがわかりました。(といっても、私はその場ではよくわからず、帰宅してパソコンで検索してびっくり仰天したのですが!)
昨日はオペラシティーでベートーベンのコンチェルトを弾かれて今日はオフ日。たまたま日本人のお知り合いの方の亡くなられたおじいさまが正倉院で箜篌について調査していらっしゃった方で(誰かの関係者というのでなく、木戸先生もその方とは初対面で驚かれていました!)、なんとなくご一緒に今日のコンサートに出かけられただけだそうで、こんな偶然のめぐり合わせもあるのですね!!!

楽器のかみさまが作ってくださった出会いにちがいありません!!!

うーん。。今夜はちょっと興奮して寝られそうもありません。
ほんとに感激な一日でした!ひたすら感謝です!(祈)

2007年05月08日 『さみどりひかり こぼれるつきに なにとはなくに。。。 』

あっという間にもう5月も1週間がすぎ、初夏というのにふさわしい毎日ですね。
我が家のベランダから見えるふたつの大きな木も、葉っぱが生い茂り、風に吹かれてゆらゆらざわざわ揺れています。
冬には一枚の葉っぱすら残らず細い枝がさみしげに月夜に照らし出されていたのに、今はきみどり色の葉に覆われて木の幹すら見えないくらい。わたしもこの木も、同じ生き物として今生きているんだなあと実感します。
川辺のかえるくんたちも競うように毎夜合唱しています。

外出をしたり、家にいる間は練習や読書、お習字、母のための曲作りなどをやっていると一日はすぐに終わってしまいます。本を読んでいると、その時代やその世界に入り込んでしまって、さまざまな色彩が目の前に鮮やかに広がったり、そこに登場するひとびとがすくそばにいるような気がして、現実にもどるのに少し時間がかかります。そして、またそこから新たに興味が湧いて、読みたい本は増える一方だし、謎は深まるばかり。途方もありませんね。。。

東京に出たついでに久しぶりに渋谷の街にも出かけました。ウインドウショッピングなんかをふらふらと。。今はこういうお洋服が流行っているのね。とか、便利なものがたくさん出ているのね。とか思うのですが、欲しいなあという欲求はなくて、自分でもどうしちゃったかしらと思いました。
欲しいものは何かなあ?と自問自答。
本は欲しいけれど、読みたければ図書館もあるし、かわいい雑貨は相変わらず大好きでウキウキするけれど、結局はかたちのないものに興味や好奇心が移って行っているのですね。

家族や友人との楽しい会話、学ぶことのよろこび、何かを見つけたときのわくわくした気持ち、旅であれ身近であれささやかでやさしい一瞬、自然の美しさ、そして、音楽。。。
そこに共通していることは、はかないようであって実は無限に感じられる、一見矛盾したものを同時に包含している、ということでしょうか。

社会はどことなく窮屈で、息苦しくなってきているような気がするけれど、たったひとつのことばや笑顔がその固まった空気を溶かしてくれることもあります。

わたしが発する音はどうでしょう?
わたしが発することばはどうでしょう?

何かが生まれるときには、必ずそれ以前のプロセスがあって、そこからまた新たなものが生まれていくのではないでしょうか。地層のように積み重ねられたものの表層だけではなく、たったひとつのものごとに含まれるたくさんのことを感じられたなら、これから積み重ねていくことの大切さもまた身に沁みて、そこに多くの可能性を見出すこともできます。
そうやってつながっている果てしないサイクルの一部分であるわたしの存在。
はかり知れない恩恵のもとに生まれて、やがて、自分も誰かの肥やしになれるようなそんな生き方ができればいいなと思います。

ちいさな音に耳を傾けてその余韻が消えるまで見送ったら、聞こえるのは呼吸する息の音。
お筝を見つめて、この木は一体どこで生まれて私のもとに来てくれたのだろう?と想像します。
切られるときは痛かっただろうなあ。さみしかっただろうなあ。。

楽器になったこの木から生まれる音には、この木のいのちが含まれているはず。
ひとうひとつの楽器とともだちになって、話を聞いて、問いかけて、放つ音の向こうにその声はどんな風に届いていくのでしょう。そこにきっとまた何かが生まれていくのですね。。。


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