このページでは、JavaScriptを使用しています

« 2006年08月 | メイン | 2006年10月 »

2006年09月19日 『かなしい知らせ』

藤井久仁江先生(九州系地歌演奏家・人間国宝)がお亡くなりになりました。

名人がまたひとり去ってしまわれました。。。
ご冥福を心からお祈りいたします。

先生が芸大で授業をされたわずかな時間に幸運にも私は受講することができました。2年間だったでしょうか。。古典をほとんど勉強していなくて何もわからないまま入学してしまった私にとって古典は苦痛の種で、しかもどこがいいんだかおもしろいんだか全くわからないようなありさまでした。

ちいさな教室で至近距離で聴いた先生の音、声。
誰もがどんな詳しい説明を受けるより衝撃を受けたことはまちがいありません。
私の中の価値観も根底から覆ってしまいました。感動と驚きと。。。

その頃教授だった上木先生が九州系の地歌に傾倒されていたこともあり、またたぶん私の状況も考えて
下さって、私は卒業演奏の曲「吼噦(こんかい)」を弾くために九州系のものを採譜から始めることになりました。久仁江先生の録音を何度も聴いて楽譜にしていったのですが、ただぼんやり聴いているだけでも圧倒されていたのに、いざ採譜という作業を始めるとその技術のすごさ、細かさ、豊かさ、、、情報量が多すぎて楽譜に書ききることなど到底できません。いくつもの型を習得し尽くしたあとに音程もはやさも自在に操ることができ、そこに無限のニュアンスが生まれていく、、、、まるで顕微鏡で観察したときのようにそれはもうはかり知れない世界でした。
自由になるための不自由の気の遠くなるような積み重ね。
先生はもはや別の世界に生きてらっしゃると感じながら、感動とともに作業をしたことを思い出します。

先生の演奏を聴いてどれだけの人の価値観が変わったことでしょう。
古典が大好きになった人がどれだけ増えたことでしょう。
あの頃学生だったわたしたちはものすごい影響を受けました。知らず知らずに先生の歌をまねていました。それに、お着物をお召しになってベンツを運転されていた先生のカッコよさにみんな少なからず憧れを持っていました。
いつも先生のまわりには学生たちがくっついていたし、私たちの研修旅行に参加してくださったとき醍醐寺の桜の木の下で記念撮影したことも忘れられない思い出です。
そして、先生にかけていただたいたことばの数々。。。

名人の芸はときとして価値観だけでなく人生まで変えてしまうのですね。

先生の声も音も、もう生で聴くことは叶わなくなりました。。。沢井先生が亡くなられたときもそう思いました。

かなしい。

お別れというのはもう会えないということ。
今朝泣いている自分の声と涙で目が覚めました。
どうして「別れ」なんてあるのでしょう?今まで別れてきた大切なひとたちの記憶までもが一気に甦ってきました。絆が深ければ深いほど強ければ強いほど別れのかなしさは大きくなる。。。なんて残酷なんだろう。。

たくさんのひとたちのこころに種を残して旅立たれた先生。
育て方、花の種類はそれぞれに違ってもずっと枯れることのない大切なたからもの。

合掌


2006年09月13日 『現実は甘くないぞ!』

急に冷え込んできました。
なんとなく寒くなるとさみしい気分になりますね。なぜでしょう?

明日からは週末まで忙しくなります。現実のあれこれ。
頭の中での想像はときとして妄想にもなりかねません(笑)
もちろん演奏することは大好きだけれど、現実にはためいきのつきたくなるようなこともあれば落ち込んでしまうこともいっぱいあります。逃げ出したいことも醜いことも。。。。自分のいや~な部分とも対峙していかなくちゃなりません!
こもっているとそんな現実に飛び出していく勇気や元気がなくなっていきます。どんどんギャップが激しくなっていくからかな?こもることにはこもることの幸せみたいなものがあって、満足してしまうのですよね。

昨年冬、池袋のジュンク堂という大きな書店で詩人の伊藤比呂美さんと共演?しました。伊藤さんの新しい詩集「河原荒草」(その後この詩集で伊藤さんは高見順賞を受賞されました!祝!)の出版記念のイベントで、彼女の朗読に私の筝をつけるというもの。即興でしたがとても印象深く心に残っています。お電話や本番までの時間にいろいろお話しました。こどもが泣いたらこどもをおぶって、ごはんのしたくをしながらでも詩や文を書くとおっしゃっていました。あまりに生々しい現実の中で、しょっちゅう時間が途切れ集中なんてできるんだろうかと思うような環境ですら、現実から浮遊しているような詩が生まれてくる。。すごいなあ。

「止まってるとね、澱むのよ。だから動き続けてないといけない。」というひとことが忘れられません。

現実のできごとを受けとめ、跳ね返して突破していく強さ。戦うものかもしれないけれど、しなやかに笑ってエネルギーに変換するくらいの浄化装置を自分の中に持っていたいものです。

太陽電池みたいな生き方ができたらなあ(笑)

。。。つまりはこうして自分を鼓舞しているわけです(苦笑)

2006_0121テリーライリー0002.JPG
(左は伊藤比呂美さん、右は私。@池袋ジュンク堂書店)


2006年09月12日 『森をさまようように』

ここのところは友人と会うことが多く、新江ノ島水族館に行ったり、はたまた我が家にお泊りの来客があったり、新しくロンドン大学の先生と交流を深めたり。。。そして、練習と読書は相変わらず。

新江ノ島水族館はすごく楽しかった!いつまで見ていても飽きないんです。
海の中にこんなにたくさんの営みがあり、何もないと思っているところには信じられないくらいたくさんの事件が起きていて、、、そうやってじーっとちいさなものを眺めているとおよそ生物という定義、人間との境界が曖昧になって、ここの水槽にいる生物たちだってこうしてガラスに張り付いているわたしたちを珍しい変なものだと思っているかもしれない。とちょっと苦笑してしまいます。
イルカの演技を見てこれまた感激!というかもう完全にこどもに戻っていた私。大声でイルカたちの名前を呼び、その華麗な演技には心底感動。大拍手。すごい!
しかも、なんだかともだちに会ったような気がして、こどもっぽいと思いつつブルーのぷるぷるしたイルカのマスコットを買って玄関に飾り、見るたび思わずにっこりしてしまうのです。。。この年にして我ながら不気味(^_^;)だと自覚症状はあるものの「かわいい」とか「愛する」ということは幸せな気分にしてくれます。

そして、友人が昨日から今日にかけてお泊り合宿。昨日は暑かったのですが、冷房もつけずタオルを片手に汗だくになって練習!練習!夕食はワインとステーキ。そしてまた練習。夜中に30分ほどのお散歩。そして今日はロンドン大学の先生もいっしょに三曲合奏。会話は英語ということでわたしたちは英会話のお勉強。私は相変わらず質問されるだけで石のように固まってしまうのでリラックスすることが一番の課題かもしれません(>_<)(こんな状態で海外に出かけてなんとかやってこれているのはまわりにいてくれる外国人のみなさんがいい方たちばかりだからです!ただただ感謝!そういえばアメリカの友人から先日メールをもらって英語で返信しましたが、これまた幼稚な英語で、しかも辞書や手紙の書き方の本を引っ張り出してきて毎回書いているわが身のなさけなさ。。。)

合奏は楽しい。会話もね。
なんだろう?わかりきったことや決まっていることをどこまで精密に理想のかたちに近づけていくかということももちろん「極める」というすばらしいことだけれど、わからないことを探っていくプロセスはまたたまらなく魅力あることです。って言い訳かしら?

ことばやできごとに対する冒険は相変わらず。
いつの間にか「笑い」って何?とか、源氏物語読んでなくちゃ結局わからないこともいっぱいあるのね。とか、もうはかり知れません。
「色」ってなんだろう?じゃあ「光」って?
もちろん物理的なことがわかるはずもないし、数式が解けるわけでもありません。全てを知ろうなんて大それたことも微塵も考えていません。(そんな能力あるはずない!)
ただ、その入口に立ってのぞいたときにほんの少しでも自分のアンテナにひっかかることがあったならそれはなんだか贈り物をもらったような気分になるのです。

私の場合、友人に指摘されるように行動様式がまず寄り道体質。
洗濯ものを取り出す目的で立ち上がって行ったのになかなか戻らないと思ったら楽譜の整理していたり。。。そこで見つけたものから何かを思い立って次の行動が決まり、また何かを見つけると次に。。。という風にどこまでも行ってしまう。結局最初の目的とは全くちがうところで無関係な行動をしているというわけです。音楽しかり、文章しかり。。。です。

でも、不思議なことにたとえば「笑い」「源氏物語」「色」。。まったくなんの関係もないところから出てくることもすべての事柄はもしかしてひとつのところに集約されていくのではないかしらと思う瞬間があります。なにひとつわかっているわけじゃないけれど。。
すべての学問、すべての事象、すべてのもの、すべてのなぞ。。。
扉をそっと開けてのぞいて迷い込んでいくと、まるでひとつの穴に吸い込まれていくように。

水族館、練習、汗、英会話、合奏、極める、散歩、ともだち、イルカ、かわいい、愛する、色、光、笑い、源氏物語、秋、音楽、筝、ワイン、洗濯、、、これらの一見なんの関係もないことがら。

そうじゃない!!きっと!!

でもね、追いかけて追いかけて探って行った先にはもしかしたら何も無いということがぽっかりと待っているだけのような気もするのです。


2006年09月06日 『果てしないということ』

ここのところ、夜はベランダからおつきさまを見るのが日課。
今夜はあいにくの雨で見ることはできないけれど、この厚い雲の向こうでは今日も昨日より少し太ったおつきさまが輝いているはず。
涼しいというより少し冷え始めた風にあたりながら、ぼんやり月を眺めて川の水が流れる音や虫たちの声に耳を澄ませているとあっという間に時間はすぎてしまって、もう寝なくちゃ!とやおら我にかえります。
じっと聴いていると水の流れのちいさな変化で川底の様子が想像できたり、虫の声で距離感が測れたり、それからじっと見ていると山々の木々のゆらぎや葉っぱの日毎の色の変化で季節の移り変わりや声がきこえてくるようで、あたりは立体的に見えてくるのです。
きこえて来るもの、見えてくるものすべてのちいさな変化は「声」というひとつのものになって感じられてきます。

こういうことをもっともっと積み重ねれば、天気予報だって地震予測だってできるかもしれないと思ったりして。。

小学生みたいな疑問もたくさん出てきます。
どうして空は青いの?とか、夕焼けはどうして起こるの?とか、月の満ち欠けはどういう仕組み?とか、虫たちはどうやってあんなきれいな鳴き声を出すことができるの?とか、夜に鳴き出す虫たちは昼間は一体どうやって生活してるの?とか。。。もう限りない疑問が湧き出てきます。
今まで学校で勉強してきたことだってあるはずなのに、興味がなかったから全部素通り。結局本質的なことはなにも身についてはいなかったということですね。
積極的にならないとほんとうの理解なんてできないのかもしれません。

今読んでる「新々百人一首」の中に出てくるたくさんの歌。「枕草子」や「万葉集」も読んでみて、もちろんことばのひとつひとつ、流れ、そこに漂うにおいのようなものを感じることはできるけれど、微妙なことばづかいの裏に秘められたたくさんのことに気づくことはできません。
丸谷才一さんの解説を読みながら、その深さにいちいち感動して、ますますことばの持つおもしろさや深さにひき込まれています。
最近はそれらの本とともにいつも国語辞典と漢和辞典と古語辞典を近くにおいてパラパラとなにげなく眺めることが楽しみのひとつになってきました。

6月にコンサートをしたとき書いた歌の詩は短歌の形式で作りました。ことばを羅列しただけのものですけれど。こどもたちが木の実や葉っぱを組み合わせて工作するように私もことばを集めてあれこれ組み合わせて何か作ってみようというような程度です。短歌というひとつの決まった形式があった方が冒険しやすいということもあるのかもしれません。枠があった方が工夫しやすいということも。。。
毎月作ろうと思いながらもう9月。今月は作りたいな。

そうやって、湧いた疑問の答を調べたり、ことばをあれこれ考えてみたり、ぼーっとただ夜の空気に触れていたり、ひとつのことにたくさんのことを見出していくときりがなくて、一日一日、一分一秒、時間や今ここにいるという事実が濃厚に感じられてきます。

音だって、音楽だって、その中のひとつのできごと。。。。です。

2006年09月02日 『秋来ぬと。。。』

ほとんど休む間もなく8月がすぎてしまい、気がついたら9月。秋ですね。。。

夕方になるとヒグラシの声があたりを包み込み、やがて、スズムシやコオロギ、マツムシ、ウマオイの声でにぎやかな夜になります。
「すいーっちょん」と鳴く虫の名前がわからなくて(ウマオイでした!)調べていたら、いろんな鳴き声の秋の虫がたくさんあるみたいで、全部聞いてみたいなあ。なんて。梅雨時のカエルくんたちしかり、真夏のせみさんたちしかり、みんなあんなちいさなからだでほんとよく通るいい声!発声法を習いたいくらい!

そして、なんといってもベランダから見るおつきさまがすごく美しい。秋はやっぱりおつきさまが一番きれいな季節なのかしら?と思いながら、ぼーっと眺めています。雲がゆっくりと通り過ぎると光が透けて、まるで動物の影みたいに走り去って行きます。風はひんやり。草木のにおいもします。ちょっと夏の名残のにおいも混じっていて、雨が降るたび草木はきっと秋への準備をしているにちがいない、そんな空気がたちこめています。

サマータイムはもうおしまい。今日からは秋の夜長に合わせてちょっと夜更かししましょう。

さて、8月は私の教室のおさらい会や桐蔭高校の国立劇場出演、自分の演奏などでリハーサルやレッスン、準備、移動であっという間に終わってしまいました。
そして、今日は来年のための高校コンクール和歌山予選。桐蔭高校は残念ながら2位。来年は全国大会に出場できません。でも私はみんなの力がわかっていて自信を持っているから落ち込んではいません。また、がんばりましょ!!

この1ヶ月、生徒さん、高校生たち、いっしょに舞台を作ったひとたち(出演者、スタッフ含め)、、、一緒に何かを作るということばかりの日々でした。

みんながそれぞれの役割を果たし、ひとつのものを作っていく。
少しずつ修正し、新しいアイデアを持ち寄り、積み重ね、問題を解決しつつ、助け合い、話し合う。

とてもいいものだなあと思いました。静かな感動がありました。
信頼と尊敬があってこそできること。そして、思いやりや知恵、責任、それらがごくあたりまえに生まれていくのです。
私の教室の生徒さんは10代から70代までそれぞれの年代のひとたちがいます。お筝を弾いている年数も違えば、もちろん体力もちがうし、性格もちがいます。できることをするのが基本。そうしてひとりひとりが係を担当して演奏会が開かれます。私は、指導と演奏者の紹介も兼ねた司会の原稿を書くこと。
桐蔭高校生もなんだって自分たちでやっちゃいます。
演奏することが目的ですし確かに演奏は楽しいけれど、こうしてみんなで何かひとつのことを成し遂げる喜びもまた大きいものです。

「教える」ということ。
自問自答。ひとりひとりのひとたちに、この方法でいいのだろうか?と考えます。曲を選ぶとき、かけることばのひとつひとつ。。。
伝えたいことは、技術だけじゃない、その向こうにある音楽の楽しみ、よろこび、そしてさらに向こうにある広い世界、大切なこと。。。
正解かどうかはわからない。(大体、答なんてあるのかしら?)
みんなと同じ。私だって途上にいるから。

今月はたくさんお手紙を書きました。生徒さん全員に。桐蔭高校のみんなに。。。

おさらい会の当日、私は18曲を演奏。その途中、連日の疲れか手が攣って動かなくなってしまいました。なんとか治りましたが。。。そのとき、くたくただし痛いけど、私はやっぱり演奏することが好きで好きでたまらないんだと思いました。
そして、お筝に出会えなかったらこんな気持ちもこんなにたくさんのひとたちと感動を分かち合うこともできなかったと。。。
小学3年生のときに初めて沢井忠夫先生の演奏を聴いて私の生きる方向は決まったのかもしれません。
たったひとつの音が、生き方を変えたり人々をつないだり生きるための支えになったり。。。
音楽のちから。

丸谷才一の「新々百人一首」を読んでいます。ことばの深さ。うたからにおいたつ妖気。

目に映るものの向こうにあるものを追いかけていくと、そこには途方もなく広い世界が待っている。

copyright(C) Nishi Yoko All right reserved.