2005年8月のPHOTO&DIARY

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 8月27日、麻生市民館ホールにてゆりがおか児童合唱団の35周年記念演奏会があった。指揮者であり指導者である山田榮子先生は35年間この合唱団を率いて来られた。この日はバッハから林光まで。最後は高橋悠治さんの新作初演。(ピアノは高橋悠治さんご自身)

私は、柴田南雄作曲「秋来ぬと」で合唱団のみなさんと共演させていただいた。
この曲の歌詞は、「梁塵秘抄」から抜粋されたもので、恋の歌。

秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

「そよ」という囃し詞からこの歌に始まり、7つの曲から成っている。

恋のはじまりはなんとなく落ち着かない。どんな音にも恋するひとの声や気配を感じて心が揺れ動いてしまう。
恋するひとの残していったものは、恋するひとそのもの。だから、いとおしく、それを見ているだけで想いは募り、心は熱くなり、時間を忘れてしまう。
こどものようにあどけなく、かわいらしく、いたずらっぽく。。。(恋をすると普段はなんでもなかったちいさな生き物までもがともだちに思えて、ちょっとからかってみたりして。。)
去っていった恋人への嫉妬、憎しみ。(これはもうどうしようもありませんねえ。。。)
そして最後に年をとって、身の上を思い巡らせる。

というのが、ちょっとまちがってるかもしれないけれど、私なりの解釈。
練習の後、「涙が出ました!」と言ってくださった方もいて、とてもうれしかった。
嫉妬と憎しみの曲は、特殊奏法がほとんどのあやしい感じの曲調なんだけれど、そこで拍手が沸きあがったときには正直言ってフクザツな気分だった(苦笑)。

こんな感じで、秋が近づいてきた鎌倉の風に吹かれながら、気分はどっぷり平安時代の白拍子になりきって毎日筝を弾いていた(笑)。鎌倉というこの場にある気が、時代の隔たりを一瞬埋めてしまうようでもあり、妙に自然と梁塵秘抄の世界へと誘われる。。。
恋は、やっぱりいいものです。。。

さて、「秋来ぬと」に参加された方々は、団員とOG有志で作られたコールリーリエのみなさん。
私が参加させていただいたのは、練習2回とリハーサル、ゲネプロ、本番。人見知りな私も少しずつうちとけて、楽器を囲んで話をしたり、あとかたずけを手伝ってもらったり。OGの方々の中には、前日や当日仕事を終えて地方から駆けつける人たちもいて、全員揃ったのは確か当日のみ?
本番前は、やっぱりみんな緊張。円陣組んで気持ちをひとつにして、さあ!出番!声もすごくよく響いていたし、絡むように筝ともうまく息があって、楽しめて、うまくいきました!やったね!

それから慌てて客席に行って新作初演を聴いた。
高橋悠治作曲 藤井貞和の詩による「ふしぎの国から」。
歌うのは、小学2年生から高校生までのこどもたち。
とてもむずかしい歌に石井かほるさんの振付がついたシアターピース。悠治さんのピアノを囲むようにこどもたちは歌い、動く。
感動して涙が出た。
こどもたちが、かみさまにちかいなんだかとても尊い存在に見えた。
舞台に浮かぶ風船が浮遊している魂のようだった。

舞台裏では、OGのひとたち、こどもたちのおかあさんたちが走りまわっていた。みんなスタッフ、手作りの演奏会。
音楽に純粋に魅かれ、集まっているひとたちの中で演奏させてもらえたことが幸せだった。
ほんとうにありがとうございました。

打ち上げはこどもたちが中心だからジュースとお茶で乾杯!
そのあと、あいさつは続き、私もひとことみんなの前で言うことに。
こどもたちが、「きれい!」とか「かわいい!」とか、黄色い声で叫んでくれた。今回は着物を着たから、そのときもみなさんにいっぱいいっぱいほめてもらった。
一生分みんなにほめてもらったなあ!(ものすごーく素直に遠慮なく喜んでいる私でした!だって、ほんとにうれしかったんだもん!)

音楽はやっぱりすてき!
だって、ここには澱んだものはないもの。みんなの音が、声が、この空間を、この時間をとても澄んだものに変えてしまったから。

そしてなによりこの場を築きあげられた山田榮子先生のパワーと魅力に圧倒され、先生を心から尊敬申しあげます。

ありがとうございました。

(写真で筝の左側に立っていらっしゃるのが山田榮子先生)

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 あっという間にお盆もすぎて、季節は秋への準備を始めてる。
予定がぎっしりで忙しいときは話題も豊富だけれど、そうでもないときは特筆すべき話題もない。

時間があるときのすごしかた。
私はとても苦手。
普段、日常の煩雑な用事に紛れてごまかしていたいろんなことがうようよと這い出してきて、それに追い詰められて身動きが取れなくなる。大体いいことはほとんど考えられない。

部屋を見渡すと知らず知らずのうちに溜まっていたほこりやゴミみたいなものが意外と山積していて、ああ、実はこんな中で私は生きていたんだ。
なんてうんざりしちゃうような感じ。で、頭抱えて憂鬱になってどうすることもできず、ただそれらを横目で見つつ、ふてくされて寝ちゃうのだ!
そうして整理もせず、お掃除もせず、この山に埋もれてじっとりじとじとくらーい毎日が続く。
ゴミはゴミを呼び、さらに降り積もって自分のいるスペースさえなくなりそうな勢いで増殖していく。。。とまあ、たとえて言うならこんな具合。

ゴミの正体は、自己嫌悪と虚無感と焦燥感と苛立ちと、さらに憂鬱と矛盾とがごちゃまぜになったもの。

こんな調子でどうしようもなくだめな日常生活を送っていたのが7月末。
でも、溜まっていく一方で放っておいても解決するわけじゃなし、追い詰められるばかりの状況にいよいよ危機を感じて、7月31日、「明日から8月。生まれ変わるぞー!」と決意。心の大掃除!模様替え!下手するとお引越し?

こんなとき、物事に節目があるってありがたいなあと思う。
明日からは!とか、来週の月曜日からは!とかリセットできるから。
節目や区切りがなくて延々どこまで続くかわからないことに新鮮さや気力を保てるほど強くはないもの。。節目があるから、なんとかここまでがんばれたね。とか、あそこまで今日は行ってみよう。とか希望をもてるし、そこでひといきつくこともできる。

さてさて、まずやってみたこと。

早起き!
サマータイムに切り替えと勝手に命名。
夏の早起きは爽快。朝顔にあいさつもできるし、夏の青空は洗濯意欲をそそるもの!シーツやタオルもいっぱいおひさまに干して、乾くとシャボンと太陽の混じったいいにおいがする。
お洗濯ものを干しながらベランダから、青空を見上げ、下を流れるちいさな川を眺めて、自分のこころも天日干し!

それから、読書。
これは私の趣味。忙しいときはいつも中断してしまって、なかなかゆっくり読めない。
ストレス解消は本屋さんに一日いて、並んでいる本を眺め、気になった本を買うことなんだけれど、そうして本だけがどんどん積み上げられていた。
読み始めると止まらなくて、一日1冊のペースで読んでいたから本の山はあっという間に小さくなっていった。
今は、ゆっくり読んだり、はやく読んだり、読み方を工夫している。なんでもすっ飛ばしてたくさん読んでもね。。。。

本の種類はいろいろ。詩集、小説、民俗学、人類学、紀行文、古典、歌集、わらべうた。。。
ばらばらなんだけれど、共通して言えることは、より原始的なものを今は求めていること。
少ないもの、ちいさなもの、不便なもの、手間のかかるもの、時間の必要なもの、手仕事、いびつなもの。。
選別されたときに無駄なものとして捨てられてしまうもの、見捨てられたもの、見向きもされないもの。
それらの中になにかとても大切なものが潜んでいるような気がするのだ。

世の中にあるゴミ、自分の中にあるゴミ、ゴミにされてしまったゴミ。
誰だって多かれ少なかれ自分の中にゴミみたいなものを持っている。捨てられないものもある。
この現実社会の中にだって目に見えないゴミがたくさんある。
無駄なものとして捨てられてきたものが果たして本当に不必要な捨てるべきものだろうか。
使い捨てでいいのだろうか。
そんなに簡単に捨ててしまっていのだろうか。
捨てるべきものはなんだろう?
私は、今、自分の中の、現実の、目に見えないのゴミの山に埋もれながら、それをひとつずつ確かめ、そこから何かを見つけようとしているのかもしれない。

それから、やっぱり音を出すこと。箏を弾くこと。
結局どこへ行こうとここに戻ってきてしまう。戻ってくるところはここしかないのだ。
音楽に、箏を弾くことに悩んでいるときですら。。

ゆっくり音を出して、そのうち響きが重なっていく、音は空気に吸い込まれていくように消えていく。
沈黙の中に残った音を耳でたどる。
いつまでも。
今現れた音がもうひとつの世界へ流れてゆくその行方を見つめるように。
こどもの頃から、音楽の中にいるときだけが自由な自分でいることができた。
あらゆる束縛、自分自身の束縛からさえ自由になれるような気がした。
でも、たぶんその頃は演奏という行為にそう感じていた。
今は少し違う。
音そのものの中にいて、弾いている自分はなく聴いている自分が感じている。
いい音だなんて陶酔しているわけではないし、感情が解放されるというのでもない。
何もないただの自分がそこにいるだけ。
現実の澱みや穢れのない生まれてきたときのままの自分の塊みたいなものがぽつんとそこにはいる。
箏を弾いている自分、音を聴いている自分、それをどこかで見ている自分。
何層もの空間が現れては消えていく。
結局音楽を仕事としていながら誰よりも音楽を必要とし、渇望しているのは自分なのだ。
その中にいるときだけは何もない無垢な私を見ることができるから。
そして、軽やかに静かに自在に飛んでいることができるから。

解決したわけでもなく、何かをつかんだわけでもない。
少し気づきはじめただけ。。。
4歳の頃から箏を弾き始めて気がついたときには音楽への道を歩んでいた私にとって、授業に出なくても、病気のときも、受験勉強をしていて禁断症状が出たといっては、箏曲部に来て箏を弾いていた高校生たちの強い気持ち、これが自信のもとで生きる支えなんですといって弾きつづける生徒さんたちの姿が、ほんとうに理解し、実感できるものではなかった。
演奏というある種の身体的な快感と仲間がいるというコミュニケーションのよろこび、メロディーやリズムの中で解放されていくこころ。そればかりではない。
音そのものの中に何かとてつもなく深く、強いちからがあるのではないだろうか。
その向こうに開かれている世界へつなぐ橋のように、虹のように、音が消えていく道筋はゆるやかな放物線を描く。

(写真は和歌山の自宅の庭に咲いたアサガオとセンニチコウ。あのあかちゃんたちがこんなに大きくなりました!)

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西陽子