最後の曲に行く前に、NINA Duo の南部やすかさんをご紹介しましょう。
プロフィールは彼女のHPをご覧になっていただくとして、私と彼女との大きな違いは、まず、年齢(笑)。
彼女はアメリカでの生活を経てドイツ留学。6年ほど前に日本にやってきたばかり。もちろんきれいな日本語を話されますが、英語の方がしっくりくるそうです。
そう、彼女のベースはアメリカで、私は、ベースも何も生粋の日本人!
話はやや逸れますが、ニューヨークに来てからというもの、こういうときにはこういう反応が返ってくるという予想は悉く裏切られ、日本で「常識」とか「普通」と思ってることはあっさり崩されました。「否、そんなはずはない。おかしい。普通はこうでしょ?・・・。」と思ったところで、誰も立ち止まってもくれないし、振り向いてもくれないし、気が付いたら不平不満の塊は道行く人に踏みつけられてぺしゃんこにつぶれているというような感じです。
それを繰り返していくうちに、小さな社会でどうでもいいことに心を無駄に悩ませていたなあ。とか、これだけは何度踏みつぶされても守る!と思うことに集約されていくのです。
でも、アメリカから日本の社会に入ることになった南部さんはきっとその何倍も大変だったことと思います。
アメリカではいろんな人種の人たちが一緒に暮らしているから、価値観が違って当たり前。だから、わからないことや違うと思ったことは、全部ことばではっきりと伝えなければなりません。それが普通だから、どんな違った意見を言おうと、「逆らった」とか「ずうずうしい」とか「分をわきまえない」とかいうことにはならないわけです。変な感情は後に残らないし、「空気を読む」なんてありえません。何か言わなければ何も始まらないし何も進まない。私にとってはどれだけ勇気が要ったことかしれません。どちらがいいとかではなくて、そういう文化なのです。
それでも、アメリカに来れば私も「外国人」。少々ずれていようがめちゃくちゃであろうがまわりも大目に見てくれるし、なにより私の中で、外国人だからわからなくて当然という開き直りができたことは大きかったです。
南部さんは日本人のお顔をしているから、日本にいれば、まわりの人たちは自分たちと同じ価値観を持っていると思いこむでしょうし、たぶんなんとなく居心地が悪く、違和感を抱えてらっしゃったのではないかなと思います。私の勝手な想像ですが・・。
彼女が見る日本は、外国人が見る日本でもなく、いわゆる日本人が思う日本でもないわけです。
どんな風に見えているのだろう?
ふたりの共通点はいろんな音楽が好きなこと。古典も現代曲も、リズムがあってノリのいい曲も、情熱的な曲も、おだやかな優しい曲も・・・。
「吹く」ということだけに無心なことが、彼女の透明感のある音や音楽の魅力の元だと私は思います。
日本でもNINA Duo のコンサートをいつか実現したいと思っています!
そして、最後の作品。「インドラの網」。
東日本大震災への追悼と祈りをこめて武智由香さんが精魂こめて作曲された新作。さまよっているいくつもの魂を慰めるため、かなしみの鐘のように響く筝の音と彼岸へと導くようなフルートの響きの中で、宮沢賢治の詩がかすかに歌われ、やがて筝の和音の響きは花になって、フルートは光になって、遠くへ遠くへ。
会場の中は静まり返って、私たちも、そこにいるすべての人たちが手を合せました。
3.11 以来、衝撃とかなしみと無力感で息をすることさえも後ろめたいような気持ちのまましばらくは虚ろな毎日でした。
被災地でそれほど愚かなことはないと教えられました。
わたしたちは失われたたくさんの夢を背負っているんです。
はるか彼方の世界に離れていってしまった人たちと出会う場を開くことができるのは音楽。
「いのち」の喜びもかなしみも分かち合えるのが音楽。
きっと・・・。
終演後のレセプションではワインもふるまわれ、にぎやかに約1時間お客様たちとお話することができました。
コンサートの後、こういう時間が持てるのは素敵ですね。
カーネギーホールでの華やかな一日が終わりました。
楽器を積み込もうと外に出たら、もう真っ暗で冷え込んでいました。空気の冷たさ、ニューヨークの喧騒、足早に通り過ぎる人たち・・・そこはもう日常。
夢のような時間から、現実に溶けるように滑りこんでいくのを少しためらって、ホールを振り返り、またいつか、ここで演奏できたらいいな。と思いました。
とびきり幸せな時間をありがとう。
すべての瞬間に、すべての出会いに、心からありがとう。
おしまい